鴫山城の築城年代は不明であるが、長禄4年(1459)に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記録として残っており、この頃にはすでに存在していたことは確実である。鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。永正18年(1521)長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされたという。この後も長沼氏は蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返すなど勢力を巻き返したが、16世紀半ばには蘆名氏に臣従することとなった。天正17年(1589)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢力とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃している。天正18年(1590)の奥州仕置によって長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷家臣・小倉孫作が6,300石で入城する。その後、上杉時代は直江兼続(上杉景勝の執務)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原戦いの後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉孫作が城代となった。その後、寛永4年(1627)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。
西宮神社 兵庫県西宮市に鎮座する西宮神社が本社。祭神は蛭子命で、一般には恵比寿神の名で知られる。 商売繁盛の神として多くの人々に信仰されてきた。また、御蔵入騒動のとき、小栗山喜四郎が西宮の恵比寿の神符を配りながら、領内村々への連絡役を果たしたと伝える。 | |
道祖神社 明治17年、会津三方道路開削のため、鎌倉崎の傍にあったもを西宮神社隣に移した。 道祖神は、村への疫神悪霊の侵入を塞ぎ、旅人の交通安全を守ると信じられた神で、自然石に文字を刻んだもの、像を彫ったものがある。 木道祖神は、子宝・安産・家内安全を祈ると願いが叶えられるととして信仰された。 | |
南山義民之碑 享保5年(1720年)南山御蔵領で起きた大百姓一揆で、指導者とされた6名 が死罪獄門となった。 この義挙を永遠に後世に伝えようと、田島の有志が昭和3年に建立した。 碑文は漢学者「杉原夷山」の撰文。 | |
南山六義人頌 南会津の田島の一隅護摩山に嘗て立ちにし六地蔵義人の霊の弔ひに喜四郎、喜左衛門、茂左右衛門、兵左衛門、久治右衛門、更に儀右衛門壮烈のかたすみを残す丘のうへ昭和16年春4月土井晩翠、平成7年5月此に南山御蔵入騒動六人の、義民の諸霊を慰めるとともに、供養のため六地蔵を再建し、田島の歴史を顧み、きねんとする。 | |
土井晩翠先生「義民の詩」 昭和16年、知人の招聘で田島を訪れた晩翠先生は、図らずも「南山義民」 の話を聞いて大変感動され、「目にみえぬ、神秘の力我を引き、義民の墓に、今日詣でしむ」と、その感慨を詠まれた。 | |
湯田玉水君碑 田島町(現在南会津町)西町出身。少年よりその画才は、町の人々を驚かしたと伝えられる。 後、東京に出て川端玉章の門に入って絵を学び、文展・帝展に連年入選し、日本南画界を代表するまでに大成したが、惜しいことに昭和4年、51才の若さで世を去った。 | |
翆園先生賛徳碑 檜枝岐村出身。名は馬場滋雄。苦学して医者となった翆園先生は、「医は仁術」を旨として、地域の医療に努めるかたわら、御蔵入騒動を戯曲化し、「南山義民之碑」を著すなど、文化人医者として町民から慕われた徳人であった。 | |
杉原夷山先生之碑 田島町(現在南会津町)西町出身。苦学しながら漢字を修め、郷土史研究にも情熱をもやし、明治31年「南山義民小栗山喜四郎」の義民伝を著した。 また、古書画の落款印譜の研究にも造詣が深く、「日本書画落款印譜」の著書として全国的に有名。 | |
傾城供養塔 会津西街道の中心的宿場町であった田島町(現在南会津町)の西町には、花町(芸者置屋・料理屋)があり、当時40人ほどの芸者がいたという。 亡くなった芸者を供養するために建立されたもので、碑面には「南無阿弥陀佛」の6文字が幽かに見える。 | |
小栗山喜四郎墓 享保5年(1720年)の南山御蔵入騒動で斬首獄門となった6人の犠牲者中、惟一人田島で逮捕され、処刑されたため、ひときわ地元民に印象が深く、義民と讃えられた。 逮捕の場となった旅籠小川屋の主人が、供養のため建立したと伝える。 | |
大越信氏顕彰碑 田村郡大越町出身。昭和19年南会津地方事務所蚕糸課長として赴任。戦後 復興のなかで、南会津地方の養蚕業振興に尽力した。 立木桑園の改良と条桑飼育法の導入は、当地方の養蚕業を大きく発展させる基となった。 | |
湘雨先生句碑 下郷町塩生出身。田島銀行に勤めるかたわら、春日部雪後と力を合わせ、 「 南山結社」を起こし、後、西町に南屋書店を開く。 久米正雄(号三汀)も投稿した俳誌「オクヤマ」を創刊し、後に自由律「海紅」として活躍。昭和7年、朝日新聞社が募集し、入選した「肉弾三勇士の歌」の作詞として全国的に有名。 | |
結び地蔵 丸山公園が造成されるとき、現在地に移された供養地蔵。その下には、整備拡張の時掘り起こし集められた遺骨が埋納されている。 後、縁結びの地蔵として崇敬された。 | |