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           (所在地/南会津町田島字根小屋 旧南会津郡役所より徒歩5分)


 鴫山城の築城年代は不明であるが、長禄4年(1459)に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記録として残っており、この頃にはすでに存在していたことは確実である。鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。永正18年(1521)長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされたという。この後も長沼氏は蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返すなど勢力を巻き返したが、16世紀半ばには蘆名氏に臣従することとなった。天正17年(1589)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢力とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃している。天正18年(1590)の奥州仕置によって長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷家臣・小倉孫作が6,300石で入城する。その後、上杉時代は直江兼続(上杉景勝の執務)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原戦いの後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉孫作が城代となった。その後、寛永4年(1627)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。


復元された鴫山城大門石垣1,鴫山城とは   鴫山城は、中世(鎌倉時代~室町時代)田島地方を支配した長沼氏の山城です。その当時の山城は、自然の地形を効果的に利用して敵の侵入を防ぐための土塁(土堤)や空濠(水のない堀)など防御施設として造られています。大きな石垣を築き、水を湛えた濠を備え、天守閣を持った近世(安土桃山時代~江戸時代)の城とは大きく違っています。その頃の戦いは、弓矢による矢合わせに始まり刀や槍を振りかざした接近戦が行われていたようです。こうした点から足場の有利さは戦いの勝利に直結していました。山城は、守るのに易く、攻めるのには難しかったようです。    

鴫山城想像図2,鴫山城はいつ出来たか 「鴫山城」という名称が、記録として最初に現れるのは、会津坂下町にある塔寺八幡神社に現存する「塔寺八幡長帳」の長禄3年(今から550年前)の記述です。それには、鴫山城が現在の金山町・只見町一帯を領地にしていた「山内氏」に乗っ取られた…と記されていることから、今から約600年前頃には現在残っている城跡の原形が造られたと考えられます。
その当時の遺跡としては、愛宕山の山頂部分に、山城の最も古い形態と言われている本地(敵の襲来に備え攻撃用の石や材木などを置いた所)がいくつも残っていることから、約600年前に城の原形が造られ、以来200年間にわたり建設、改修が繰り返され、現存する城跡の姿になったものとかんがえられます。
3,鴫山城の構造は  鴫山城は、「惣構えを備えた根小屋式山城」と言われ、愛宕山の頂上から続く尾根や谷間を巧みに利用した土塁や空濠などに囲まれています。これを惣構えといいます。
発掘整備された濠を渡り、これも復元された大門石垣を過ぎると内城と呼ばれ、上千畳が城主の居住する屋形、下千畳が食糧、兵器等の倉庫などが置かれ、大門石垣の奥の平地は御平庭と呼ばれ役所のあった所で、これらが鴫山城の中心部でした。
山頂に続く山道から頂上部は詰の城と呼ばれ、城が攻められたとき最後に立てこもって防戦、抵抗する砦です。簡単な宿所、食糧を保管する倉庫、雨水を蓄えた溜め池のような施設もあったのだろうと言われています。頂上部背後の屏風岩に連なる峰々は搦手といって、最後の脱出口とのことです。
これら城を守った家臣達の屋敷は根小屋と呼ばれ、大門前面に広がっていました。現在の愛宕山参道沿いの屋敷地のあたりです。もともと根小屋とは「寝るための小屋」、城を守る番兵が寝起きするための小屋の意味で、現在は地名になっています。
これら根小屋一帯の侍屋敷は城が攻められた場合、当面する外的に対する防御施設にもなり、鴫山城の外郭としての役割を担っていました。
このように、鴫山城は、外郭・内城・詰め城の三段階構成で成り立つ惣構えを備えた根小屋式の山城だったのです。
長沼盛秀の墓・徳昌寺4,鴫山城の城主は  中世の田島地方は「南山」とも呼ばれ、栃木県長沼町を本拠とする長沼氏の領地でした。長沼氏は、代官を遣わし南山を支配していましたが、7代目義秀の頃長沼の地を失い、田島に退却したのだろうと言われています。以来中世末(およそ420年前頃)まで、長沼氏の子孫が城主として南山を支配してきました。長沼氏最後の城主は「長沼盛秀」で盛秀の墓は今も徳昌寺に残っています。
以後南山は、豊臣秀吉の奥羽仕置により蒲生氏・上杉氏などが支配するところとなり、それぞれの家臣が城主(代官)として鴫山の城に入部し、城内も整備されてきた。江戸時代に入り、加藤嘉明が会津地方の領主のとき、幕府の一国一城令の適用により、鴫山城は廃城となり今日に至っている。


空から見た鴫山城鴫山城跡実測図
           空から見た鴫山城                  鴫山城実測図


                                    鴫山城想像図



鴫山城登城口西側侍屋敷跡
登城口から赤鳥居までの根小屋周辺侍屋敷跡(さむらいやしきあと)
  大門から北側段丘の削平地は侍屋敷と呼ばれる。発掘調査では礎石、中世陶器、鉄製品等の遺物が発見され、内城を直接防備する家臣団の屋敷跡であったことが確認された。
鳥居右鴫山城案内板大門西側空堀
                 鴫山城案内板大門右側の空堀(からぼり)
  内城と外郭を分ける水を堪えない堀。東西の空堀は大門の虎口で南北に食い違いをみせ歪みをつくる。東壁塁より西に延びて横矢掛かりを伴い、内城を囲み込み南の山根に至る。堀は深さ4m、幅14m程で長柄槍の戦闘を想定した構造となっている。
空堀に続く左右大門西側大門
空堀に続く大門跡(だいもんあと)
  大門は城の正面で追手門とも呼ばれる。中世の山城は普通石垣を持たないので、この大門は中世から近世城郭の過度期の姿と考えられる。
右大門跡
下千畳からの東側空堀下千畳から見た田島市街地
下千畳から見た左右大門と左側の空堀下千畳から見た田島市街地
御平庭御平庭の石組井戸
下千畳から見た御平庭(おひらにわ)
  大門石垣から愛宕山に向かう道とその東側の広範な削平地。鴫山城の三の丸にあたる。中世「庭」は屋形の軒先の空間を指す。御庭とは領内からの目安。注進の取次を受けるの意で、城内の役所があった場所。
御平庭石組井戸(おひらにわいしぐみいど)
  堀り込んだ内部を切石で積み上げたもの、縦 1m、横70と小ぶりであるが、丸井戸でなく長方形であるのが特徴。御平庭は、上方の水手曲輪と土塁で区画されていたため、その伏水脈に掘ったものである。
御平庭から見た下千畳上千畳
御平庭から見た下千畳(しもせんじょう)
  本丸としての上千畳を守護するための二次的な政治・軍事的な役割があった。大門石垣脇から登る上千畳への通路でもあった。
上千畳(うわせんじょう)
  城主、城代の居館があった所。この場所に少なくとも三棟以上の書院建築が存在していたことが発掘調査により分かっている。根小屋地区の侍屋敷や大門石垣と共に長沼氏以降の蒲生・上杉氏時代のものと考えられる。
嗽清水三仏堂
嗽清水(うがいしみず)三仏堂(さんぶつどう)
御花畑御茶屋場
御花畑(おはなばたけ)
  地名が示すように草花を植栽した所で、薬草や龍城戦に備えての食用野菜等の栽培が行われていたと考えられるが、鴫山城の中核部がいかに計画的に区画されていたかが分かる遺構の一つ。
御茶屋場(おちゃやば)
  山城の前線基地で、詰の城の大手口に相当する。見晴らしの良い平削地で敵の侵入をここで食い止める重要な曲輪であった。
東外壁塁主水曲輪
東外壁塁(ひがしがいへきるい)
 愛宕山山頂を起点として城域を東西に包み込むように外郭が存在した。得に東側部分、御茶屋場から麓の八幡神社までは「比高二重土塁」の構造を持つ見事な遺構が残存する。
主水曲輪(もんどくるわ)
  詰め城を構成する重要な曲輪。小削平地が階段状に続き、北側には野面石積みが見られ、全面に虎口を設ける。初期の鴫山城は山頂部分と中腹の主水曲輪の辺りが城域だったと考えられる。
主水曲輪北側の野石垣主水曲輪上の大岩(馬返しの岩)
主水曲輪北側の野石垣主水曲輪上の大岩(馬返しの岩
愛宕神社本殿愛宕神社(山頂)から見た市街地
愛宕神社本殿(あたごじんじゃほんでん)
  詰の城。中世時代の本丸にあたる。他の館・砦からの狼煙をこの山頂で受けた。愛宕神社山頂部を核として、岩山と尾根を利用した築城方法は南北朝争乱期の岩座信仰と結びつく。これらが鴫山城の成立期の姿を現しているとされる。仁王門・仁王像共に江戸時代後期の作とされ、作風から歴史的史料として価値が高い。
            愛宕神社(山頂)から見た市街地
土門跡・矢倉台跡外郭遺構
土門跡・矢倉台跡(つちもんあと・やぐらだいあと)入口
外郭遺構(がいかくいこう)
 愛宕山山頂より麓へ延びる東西両翼の土塁と、北側正面の土塁と空堀は接続し、城郭全体をすっぽりと包み込み、鴫山城跡の最大の特徴である。「惣構え」といわれる外郭を形づくっていた。この惣構えの正面の様子を伝える一部約70㎝が雄一ここに残存しており、大変貴重な遺構である。中央小径の南側畑地が空堀跡で、北側の土塁を崩して埋め畑地としている。東側の部分が外周土塁より0.5~1m低く空堀跡であることがわかる。累壁を形成する傾斜面は複雑に屈曲し横矢掛りがみられ、鉄砲を意識したプランデでもあると考えられる。
土門跡(つちもんあと)
 西外壁塁鞍部に設けられた枡形門。近世城郭の枡形は五八の内枡形(五×八間)が標準であるが、土門はそれより小さく土塁の外に作られた出枡形で中世の一文字土居に近い原初的枡形。近世枡形への過度期の姿を示す遺構として貴重である。
矢倉台跡(やぐらだいあと)
 鴫山城の最も弱点とされている土門を守備し兵内(新町)丸山出城を監視するために設けられた矢倉台跡。沢を隔てた西側中沢台山出城と連携して土門よりの敵の侵入を阻止する。矢倉台直下に支峰稜線上を利用した土塁及び堀切りがみられる。




(所在地/南会津町田島字丸山 旧南会津郡役所裏)

丸山歴史公園
 

丸山公園に、「南山義民の碑」・「翆園先生賛徳碑」・「杉原夷山先生之碑」が建っている。
現在は公園となっているが、古くは、教林寺墓地であり、自性庵が建てられていたという。
  「さいば」の墓地は近世初期の貞享元禄の墓石を含んでおり、近世初期から教林寺檀家の墓地として続いたようであるが、大正中頃にすぐ下を用水堰(田島堰)が流れ堰水が住民の洗いものに使われるからと、衛生関係筋から廃墓地とされたものであった。
 前述の慰霊祭の時、教林寺住職吉田氏により、同墓地にあった「自性庵(じしょうあん)」については興味深い由来が語られたが、ここに再録しておきたい。
 教林寺は元禄5年(1692年)に焼失したうえ住職の長悦が翌6年に遷化したので、九代住職の自観が本堂再建を行った。自性庵はこの自観が「さいば」に建立、後7年間住んでいたとあるから、はじめ本堂が落成するまでの仮住まいのつもりだったのであろうが、後、庵号をつけて教林寺末寺としたわけである。
 次は元禄より約70年後の安永3年、14代岸柳和尚の時に再建された記録がある。
前の自観が他寺へ移ったあと無住にでもなって荒れたのであろうか、再建は3年を要し5年に成熟した。
 次に時宗37代遊行傾心上人が未だ悦岸と云って教林寺に居た頃の寛政5年智定和尚という人が自性庵に暫く住んでいる記録がある。
寛永4年、18代快岸和尚が19代雪山に寺を譲ったので翌5年、三度自性庵を建ててここへ隠居させた。この隠居寺も、幕末には一役を買っている。ペリー来航以来海岸防禦に躍起になっていた幕府は大砲小銃製造のため安政3年辰年、全国寺院の梵鐘供出を命じた。教林寺には宝暦3年(1753年)田島川島・高野3組の善男善女の喜捨により鋳造した約百貫目の重さの釣鐘があった。時の住職雪山住職和尚は之をうまく断った。
理由は「当時は実蔵寺と申す末寺を持つ由緒ある寺である。実蔵寺は昔田島村のうち今町と申す所に建っていた由で、記録が残っていたのであるが、その書きものは元禄5年の火災に焼失して今はない。現在は「菜遺場」と申すところに再建されているが、「小本寺」に該当するので梵鐘供出は据え置きにしていただきたい」というのである。実蔵寺は自性庵のことであり、元禄以前にもあったかどうか。あったとすれば余程古い時で、元禄の記録が「自性庵開基自観」と開基の文字を使っているところから、古い名が或いは実蔵寺だったのかもしれない。
ともあれこの願書が通り、梵鐘供出はうまくまぬかれることができた。
 自性庵はその後、雪山和尚が明治7年より隠居寺として住み、明治22年ここで他界している。その後この庵は住む人もなく廃滅したようである。庵の位置は、今の南山義民碑の辺だったと伝えられている。
 「菜遺場」なる文字であるが、教林寺資料にあるので使用したのである。承応4年(1655年)田島町(現在南会津町)縄引帳には「さゑんば」が「さいば」にかわったのかも知れない。
  現在は、丸山歴史公園として町民の憩えの場となっています。

西宮神社
 
兵庫県西宮市に鎮座する西宮神社が本社。祭神は蛭子命で、一般には恵比寿神の名で知られる。
商売繁盛の神として多くの人々に信仰されてきた。また、御蔵入騒動のとき、小栗山喜四郎が西宮の恵比寿の神符を配りながら、領内村々への連絡役を果たしたと伝える。 
道祖神社
 
明治17年、会津三方道路開削のため、鎌倉崎の傍にあったもを西宮神社隣に移した。
道祖神は、村への疫神悪霊の侵入を塞ぎ、旅人の交通安全を守ると信じられた神で、自然石に文字を刻んだもの、像を彫ったものがある。
木道祖神は、子宝・安産・家内安全を祈ると願いが叶えられるととして信仰された。
南山義民之碑
 
享保5年(1720年)南山御蔵領で起きた大百姓一揆で、指導者とされた6名 が死罪獄門となった。
この義挙を永遠に後世に伝えようと、田島の有志が昭和3年に建立した。
碑文は漢学者「杉原夷山」の撰文。 
南山御蔵入騒動6人犠牲の供養像南山六義人頌
 
南会津の田島の一隅護摩山に嘗て立ちにし六地蔵義人の霊の弔ひに喜四郎、喜左衛門、茂左右衛門、兵左衛門、久治右衛門、更に儀右衛門壮烈のかたすみを残す丘のうへ昭和16年春4月土井晩翠、平成7年5月此に南山御蔵入騒動六人の、義民の諸霊を慰めるとともに、供養のため六地蔵を再建し、田島の歴史を顧み、きねんとする。
土井晩翠先生「義民の詩」
 
昭和16年、知人の招聘で田島を訪れた晩翠先生は、図らずも「南山義民」  の話を聞いて大変感動され、「目にみえぬ、神秘の力我を引き、義民の墓に、今日詣でしむ」と、その感慨を詠まれた。
湯田玉水君碑
 
田島町(現在南会津町)西町出身。少年よりその画才は、町の人々を驚かしたと伝えられる。
後、東京に出て川端玉章の門に入って絵を学び、文展・帝展に連年入選し、日本南画界を代表するまでに大成したが、惜しいことに昭和4年、51才の若さで世を去った。
翆園先生賛徳碑
 
檜枝岐村出身。名は馬場滋雄。苦学して医者となった翆園先生は、「医は仁術」を旨として、地域の医療に努めるかたわら、御蔵入騒動を戯曲化し、「南山義民之碑」を著すなど、文化人医者として町民から慕われた徳人であった。
杉原夷山先生之碑
 
田島町(現在南会津町)西町出身。苦学しながら漢字を修め、郷土史研究にも情熱をもやし、明治31年「南山義民小栗山喜四郎」の義民伝を著した。
また、古書画の落款印譜の研究にも造詣が深く、「日本書画落款印譜」の著書として全国的に有名。
傾城供養塔
 
会津西街道の中心的宿場町であった田島町(現在南会津町)の西町には、花町(芸者置屋・料理屋)があり、当時40人ほどの芸者がいたという。
亡くなった芸者を供養するために建立されたもので、碑面には「南無阿弥陀佛」の6文字が幽かに見える。
小栗山喜四郎墓
 
享保5年(1720年)の南山御蔵入騒動で斬首獄門となった6人の犠牲者中、惟一人田島で逮捕され、処刑されたため、ひときわ地元民に印象が深く、義民と讃えられた。
逮捕の場となった旅籠小川屋の主人が、供養のため建立したと伝える。
大越信氏顕彰碑
 
田村郡大越町出身。昭和19年南会津地方事務所蚕糸課長として赴任。戦後  復興のなかで、南会津地方の養蚕業振興に尽力した。
立木桑園の改良と条桑飼育法の導入は、当地方の養蚕業を大きく発展させる基となった。
湘雨先生句碑
 
下郷町塩生出身。田島銀行に勤めるかたわら、春日部雪後と力を合わせ、 「  南山結社」を起こし、後、西町に南屋書店を開く。
久米正雄(号三汀)も投稿した俳誌「オクヤマ」を創刊し、後に自由律「海紅」として活躍。昭和7年、朝日新聞社が募集し、入選した「肉弾三勇士の歌」の作詞として全国的に有名。
結び地蔵
 
丸山公園が造成されるとき、現在地に移された供養地蔵。その下には、整備拡張の時掘り起こし集められた遺骨が埋納されている。
後、縁結びの地蔵として崇敬された。

 
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